越後新四国八十八ヶ所霊場 第六十七番

ほほえみて 木喰のおわす寺 深き祈りに 慈悲のともしび

微笑仏の寺 木喰三十三観音(県指定文化財)

御本尊 

阿弥陀(あみだ)三尊像((さんぞん  )

(毎年8月1日御開帳)

●阿弥陀如来の真言

おん ありみた ていぜい から うん

白鳥寳生寺の沿革

 千年前の昔、寛弘七年(一〇一〇)、旅の僧、元杲(げんごう)上人という人が、白鳥の鎮守である白山神社の社僧となり、神をまつる神宮寺として当山を草創されたのが始まりです。

 その後、元文五年(一七四〇)、第二十七世・快尊和尚が高野山に登り、宝亀院の政与僧正より法流を相伝され、中興となる。

 天保十五年(一八四四)、二色(にしき)寺格となりました。

 享和四年(一八〇四)六月、木喰(もくじき)五行上人が来寺され、境内の銀杏の巨木で、三十三観音、並びに自刻像(自分の姿像)を彫刻された。

 その後は微笑仏といわれ、円熟期の代表作です。またその保存状態も良好であるとして、昭和四十二年三月、県文化財に指定されました。昭和四十三年、今の木喰堂を建立し安置しました。

 第三十四世(中興七世)尊義和尚、祈禱のため高野山に登山された。その折、人皇第百十一代・後西天皇の第三皇女、宝鏡寺之宮が尊義和尚の高徳をしたって当山に来寺され、山号額「(こん)亀山(きざん)」を親筆されました。そのため、門前の往来は、乗馬・乗り籠が禁ぜられました。

 本堂は、寛保元年(一七四一)と明治十三年三月の二回にわたり火災で焼失。現本堂は、昭和五十一年、第四十六世・亮光代に新築されたものです。

寳生寺の木喰仏(もくじきぶつ)

◯木喰上人の略歴

 木喰上人は、享保十三年(一七二八)八代将軍吉宗時代、甲斐の国丸畑(まるばたけ)村(山梨県身延町)に生まれました。十四歳の時に故郷を出奔して江戸に行き、二十二歳の時に相州大山石(おおやませき)(そん)に参籠した際、真言宗の僧に導かれて仏門に入られました。

 それから二十有余年の間修行をつみ、四十五歳の時日本廻国修行の大願を立て、常陸の国の木食観海上人の弟子となり、木食(もくじき)(かい)(火食を絶ち、五穀(ごこく)を避ける)を受けられました。安永二年(一七七三)、五十六歳の時に大山山麓を立ち、六十六部納経(のうきょう)(ひじり)として関東、東北、北海道、佐渡から九州まで、三十余年にわたる廻国の旅を続けられました。

◯木喰仏について

 木喰上人が刻んだ仏像は、心に太陽を愛し、満月を好んだ円相を表わしています。上人の民衆救済の強い意志の表われであり、人々に親しく語りかけてくれます。その彫刻はノミによるあらけずりで、いびつであり「だんご鼻」であったり、仏像がほほえみを浮かべている等々の特徴があり・・・ひたすら創作することに意をそそいだものに外なりません。いつ如何なる時も笑みを忘れない、信仰一筋によって造られた一本彫りの微笑仏(びしょうぶつ)です。

◯当寺における彫刻

 享和四年(一八〇四)五月、刈羽郡太郎丸村(現長岡市小国町)真福寺で仁王尊や梨木観音を刻み、やがてその下旬に当山に来られ、境内に枝なす銀杏の巨木を見て心願を発し、民衆教化のため西国三十三観音像の彫刻を思い立たれます。当時の住職、第三十七世(中興十一世)義天師に許しを乞い、六月九日より七月十三日迄の三十五日間、黙々とノミを入れられたのです。

 上人は、昼は寺に集まる人々の病気や苦悩の相談相手となり、夜は彫刻に専念し、一夜一体、また二体と彫り続け、かくて三十三観音像が出来上がったのです。時に上人は八十七歳の高齢でありました。 

 当寺で三十三観音を刻まれたあと、古志郡上前島村(現長岡市)に行かれ、金毘羅大権現と秩父三十四所観音像、ならびに自刻像二体を刻み、出雲崎湊に向かう途中再度当寺に立寄り、その自刻像のうち一体を義天師に贈って行かれたということです。

 現在判明する木喰仏像は、全国で六二〇余体(内、自刻像十五体)といわれていますが、その保管状態が全て芳しいとはいえません。しかし当寺の仏像は幸い破損がなく、木喰上人の円熟期の作風を示す、優れた彫像といえます。

木喰上人真筆 仏菩薩名号書(祈願文)
木喰上人の歌碑

 木喰上人が八十七歳のときに詠んだ歌の碑。冒頭に「(とし)(とく)(年徳神の事)」とあり、次に「福は内 満免(まめ)で納むる年のくれ めったむしゃうに 満免のよの中」という歌が書かれている。年徳神は年の福を司る神。

 この歌は、年の終わりにあたり、自身が健康でおられたことを年徳神に感謝して詠んだもの。

宝鏡寺之宮御親筆山号額『金亀山』
宝鏡寺下知状

 享保19年(1743)4月、京都の比丘尼寺・宝鏡寺の役人が、当宝生寺の住職が尼公の御祈祷をして効験があったとし、当寺境内の鎮守白山宮の神額と山号の額を染筆して寄附されたことを伝えるとともに、永く粗末にせず、額の辺りにおいて殺生を禁ずるとした下知状。

禁制

 元文5年(1740)8月、紀州高野山の宝亀院が、当寺住職に対して、京都宝鏡寺より鎮守白山宮の額と山号の額を染筆して下されたので、金亀山密厳院の門前における乗打ち(馬やかごに乗って通ること)を禁止するとした文書。

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